心は傷つかない
「心が傷つく」とは、という問いに一つの答えが提示されたので、アウトプットする。
そもそも「心が傷つく」とは何か。ということをずっと考えてた。
例えば、「お前のことが嫌いだ」と言われたとする。
その時、確かに胸が苦しくなる感覚、呼吸が浅くなる感覚といった心が傷つくという表現は、確かにあるだろう。
しかし、冷静に考えてみると、「お前のことが嫌いだ」というのは、
「お」「ま」「え」「の」「こ」「と」「が」「き」「ら」「い」「だ」という文字の羅列に過ぎない。
例えば、「お前のことが好きだ」と言われると嬉しい気持ちになるかもしれない。
なぜだろう。
所詮は文字の羅列なのに・・・
このあたりは、はるか昔、人間が群れを成して暮らしているときに、
集落からの孤立=死であったので、その名残もあるかもしれないが、現代で特に日本では、孤独がすぐ死に直結するケースは、まぁない。
むしろ必要以上に相手の言動に対して、ピリピリしているような気さえする。
生きづらい世の中と言われる所以もそこかもしれない。
この答えとしては、言葉に対して人間が勝手にこれは良い意味、これは悪い意味というレッテル貼りを無意識のうちにして、善悪を判断しているからだという教えは、仏陀の教えとしてある。
しかし、「心が傷つく」とは何かという答えではなかった。
では、まず「心」とは何か、それは・・・・
「光のようなものある。」
そもそも、「お前のことが嫌いだ」という言葉を聞いても、「心自体」は傷ついていないのだ。
なぜなら、「光」だから。
感情には、「怒る」「うれしい」「悲しい」といった様々なフィルターが存在している。
ここで一度、映像を映し出す映写機を思い浮かべてほしい。
実は、「心が傷つく」とは、この映写機のフィルムが傷ついていたのだ。
そして、映写機から光が放たれ、映像となる。
光は決して傷つくことはないが、映写機は傷つけることができる。
映写機を傷つけると、映像に砂嵐が出たり、雑音が入ったりする。
これが「心が傷つく」ということなのだということを知った。
つまり、相手の言葉を悪と判断することで、自分でフィルムを傷つけていたのだった。
しかし、これは、解釈の問題なので、今日から変えることができる。
そして、大切なことは
「フィルムはいつでもどこでも取り換えが可能だということだ」
今日、今この瞬間から、幸せはつかみ取ることはできる。
メンタルが強い、打たれ強いとは、自分で故意にフィルムを傷つけない人のことを言うのだろう。
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。